藤沢周平『橋ものがたり』

〈幼な馴染みのお蝶が、仕事場に幸助を訪ねてきた。奉公に出るからもう会えないと、別れを告げるために。「五年経ったら、二人でまた会おう」年季の明けた今、幸助は萬年橋の袂でお蝶を待つが…。(「約束」)様々な人間が日毎行き交う江戸の橋を舞台に演じられる、出会いと別れ。市井の男女の喜怒哀楽の表情を瑞々しい筆致に描いて、絶賛を浴びた傑作時代小説。〉



 藤沢周平の時代小説を読むのはこれで2冊目になる。前回読んだ『たそがれ清兵衛』は剣客ものだったが、今回読んだ『橋ものがたり』は市井もの。〝市井〟とは、〝市中の人民、庶民〟の意。
 新潮文庫版の解説を担当している井上ひさしが言うには、江戸期の橋は人々が離合集散する場所であり、現代ならばちょうど駅のようなものだった。短篇連作集である本書は、その〝橋〟にまつわる10篇の恋愛・情愛物語で構成されている。単行本は昭和55年(1980年)刊行。
 向井敏『海坂藩の侍たち』によると、短編連作は藤沢周平の得意芸の一つ。純粋な市井ものとしては趣向の異なる2作『橋ものがたり』『本所しぐれ町物語』があり、ともに特異な工夫がほどこされている。ふつう短篇連作では各篇に共通する特定の主人公が存在するものだが、この2作にはそういった主人公は存在せず、各篇の独立性がきわだって高い。

〈まず、『橋ものがたり』の場合。市井の男たち女たちの切ない恋のさまざまを描いた十の短篇から成るこの作品では、登場人物は一篇ごとに異なった性格と境遇を与えられ、その篇が結ばれると同時に舞台を去って、ふたたび姿をあらわすことがない。各篇いずれも首尾はよくととのい、文体はしっかりと練られ、この作者ならではの澄んだ叙情を美しく響かせて終る。それだけでも独立した好短篇として賞味されるに値する佳作ぞろいだが、だからといって、その十篇を集成した『橋ものがたり』が市井の恋をテーマとした短篇の集にすぎないと言い切ることはだれにもできないだろう。『橋ものがたり』の総題のもとにまとめられることで、個々の短篇がそれぞれ擁していた情感が増幅され、また共鳴しあって、長篇型の深みのある余韻が耳底に響いてくるのだから。〉(「しぐれ町の昼と夜」)



 10篇とも男女が橋で出会い別れるのだが、ならばどれも同じなのかというと、もちろんそんなことはない。年齢も性格も境遇も異なる男女を主人公として、それぞれ違った趣向の物語として仕上げられている。そのため、「またこの展開か…」とうんざりするようなことはなく、各篇ごとに新鮮な気持で読むことができた。誰が読んでも気に入る作品が見つかるだろう。
 本書収録の短篇には相手を思う真直ぐな気持が描かれたものが多く、登場人物への愛しさ切なさに胸が熱くなり、後にはほっこりと温かい余韻が残る。また、必ずしも10篇すべてがハッピーエンドというわけではないが、そういう場合であっても後味の悪さはない。それは、主人公が最後にはそれまでの日常へ戻っていくからかとも思うが、これは『たそがれ清兵衛』収録の各篇にも通じることかもしれない。
 全体的な感想としては、「面白かった」よりも「良かった」という言葉の方が適切だと思う。それから、便利すぎる道具は人の情の表出を妨げてしまうから、変ることのない人の情を描く場合、時代小説というのは適切な形式なのかもしれない…。ふと、そんなことを思ったりもした。そろそろ長篇小説にも手を出してみようか。

 最後に小言を一つ。向井敏は〈文体はしっかりと練られ〉と述べているが、読点が1つ多いかなと感じることがたまにあった。読んでいる途中で、ふと小石にでもつまずくように引っかかる。例えば、1篇目「約束」の冒頭は次の一文で始まるのだが、2つ目の読点につまずく。

〈幸助が身支度をしているのをみて、父親の藤作が、布団の中から声をかけた。〉

 もちろん、スッ転んでしまうほどではないので、あまり気にせずに読み進めることにするのだが、忘れた頃にまたコツンとつまずく。
 読点は文章に論理性とリズムを与えるための区切り。私が〝つまずく〟というのは、誤読を回避するための読点が文章のリズムを崩しているように感じられる箇所のこと。もっとも、読むリズムなど個人の好みに過ぎない、そう言ってしまえばそれまでだが…。



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