藤沢周平『驟り雨』

〈激しい雨の中、一人の盗っ人が八幡さまの軒下に潜んで、通り向いの問屋の様子を窺っていた。その眼の前へ、入れかわり立ちかわり雨やどりに来る人々。そして彼らが寸時、繰り広げる人間模様…。表題作「驟り雨」をはじめ、「贈り物」「遅いしあわせ」など、全10編を収める。抗いきれない運命に翻弄されながらも江戸の町に懸命に生きる人々を、陰翳深く描く珠玉の作品集。〉



 藤沢周平『蟬しぐれ』を読み終えた時に、BLOGの記事では『三屋清左衛門残日録』が気になると書いたのだが、先に購入した方から読むことにしているので、今回は市井ものを集めた短篇集『驟り雨』を手に取った。収録作品は以下の10篇、単行本の刊行は昭和55年(1980年)。

「贈り物/うしろ姿/ちきしょう!/驟り雨/人殺し/朝焼け/遅いしあわせ/運の尽き/捨てた女/泣かない女」(目次)

 藤沢周平の市井ものを読むのは、『橋ものがたり』に続いて本書で2冊目になる。『橋ものがたり』収録の短篇は基本的に恋愛ものばかりだったが、本書収録の短篇では愛情にかぎらず様々な〝人情〟を扱っており、個人的には本書のほうが好みだ。
 もはや私にとって〝藤沢作品ガイドブック〟と化してしまった向井敏『海坂藩の侍たち』の中でも、本書収録の短篇についても少しだけ触れられており、「うしろ姿」「驟り雨」「運の尽き」などが挙げられている。

〈暗みに傾く作風のわけても目立つ市井ものの短篇も、『用心棒日月抄』の成った前後からしだいに相貌をあらため、ハッピー・エンドとまではいわぬまでも、何かしらほほえましい、なごんだ後味を残す結末を持つものがふえはじめる。〉

 本書収録の10篇中に完全なハッピー・エンドと言えるものはほとんど無いに近いが、もしも物語の続きが書かれたならばハッピー・エンドもあり得るかもしれない…そんな期待あるいは希望を抱かされるようなものが多い。向井敏の言う〈何かしらほほえましい、なごんだ後味〉というのも、そういった暖かい期待感のようなものだと思う。
 また、例えば「うしろ姿」「ちきしょう!」といった作品には、むしろ後味の悪さすら感じてしうまうのだが、同時に(これもまた人なんだよなあ…)と妙に納得させられてしまう。こういうあたりが、作家・藤沢周平の上手さであり凄さなのだろう。まあ、そうは言っても、私はハッピー・エンドが好きなので、表題作「驟り雨」や「運の尽き」が気に入ったわけだが…。



 ところで、「人殺し」を読んですぐに思い出したのが、『橋ものがたり』収録の「殺すな!」という1篇。そもそも「人殺し」「殺すな!」という題名からして直截的にすぎるし、それだけでも他の作品とは何か違う印象を受ける。そして、本書を読み終えた後になっても、ずっと頭の隅に引っかかっていた疑問がある。
 殺人ということでは、例えば『たそがれ清兵衛』『蝉しぐれ』といった武家もの・剣客ものでは何人もの人たちが斬り殺されるわけだが、それらにおける殺人と「人殺し」「殺すな!」における殺人の違いは何なのか?そして、何故こんな直接的な題名を付けたのか?
 両者の違いは、おそらく〝真っ当である〟かどうかということ。直接的な題名を付けたのは、作者にとってそれだけ大切なことだからだろう。そして、〝真っ当である〟ことを大切にする姿勢があるからこそ、藤沢作品が多くの読者に受け入れられているのだと思う。

 ここで思い出したのが、向井敏『海坂藩の侍たち』の「英雄ぎらい」という章。そこでは、織田信長に対する評価に関して、藤沢周平と司馬遼太郎が比較されている。
 信長には殺戮を楽しむような性癖、異常な嗜虐性とでも言うべき〝狂気〟があった。藤沢周平はそれを受け入れることができず、信長に対する評価をプラスからマイナスへと大きく変えることになった。だが、司馬遼太郎はそれを認めた上でなお、信長に対する積極的な評価を変えることはなかった。

〈司馬遼太郎が大きな視野で歴史を眺めわたすことで信長の「異常さ」に耐えることができたのに対し、藤沢周平は常識的な立場から信長の「異常さ」を受けいれがたいとした、というだけである。もっとも、そうした態度の違いが、信長の場合にかぎらず、司馬遼太郎の作風を歴史の大きなうねりのなかで人間を観察するという方向に、また藤沢周平のそれを日常的な次元で人間を扱うという方向に、導いていくのにかかわることがありはしただろうが。〉

 ここでも、〝真っ当である〟ことを何よりも大切にする藤沢周平の人間性とでもいったものが見えてくるように思う。



〔関連記事〕
藤沢周平『蟬しぐれ』(2017-02-27)
藤沢周平『橋ものがたり』(2017-01-30)
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【雑文】姪は〝ボクっ娘〟

 今から数カ月ほど前、年末年始に帰省した時のこと。その日はたまたま妹が子供たちを連れて来ていました。大掃除から正月飾りまで年末の雑用が一通り済んだ後、私は暖かい居間でのんびりと本を読み、すぐそばでは両親が姪(3歳)と甥(1歳)の遊び相手をしてたのですが…。
 突然、姪が「ボクは~」と口走ったんです!?あまりにも唐突だったので、一瞬、何が起こったのか分かりませんでした。すぐに姪の方へ目を向けると、姪は少しはにかんだ表情ながらも、何やら楽しそうに「ボクは~」を繰り返しています。
 おそらく、保育園の友達とかテレビの登場人物が「ボクは」を使っているのを聞いて、自分も使ってみたくなったんでしょう。それにしても、まさか天然の〝ボクっ娘〟に遭遇する日が来るとは思いませんでしたね。

 子供が新しい言葉の使い方を覚える過程というのは、どうやら他の人の真似をすることから始まるようです。誰かが使っていた言葉を自分も真似てみて、その時に周囲がどういう反応をするかを窺い、問題がないようならばO.K.と判断してそのまま使っていく…といった感じでしょうか。
 姪の〝ボクっ娘〟発言にしても、新しく知った言葉を試しに使ってみて、周りの反応を窺っていたんでしょう。今にして思えば、姪の〝はにかんだ表情〟はそういう気持ちの現れだったのかな?という気もします。ひょっとすると、新しい言葉を使っていることを自慢したい気持ちもあったのかもしれません。

 しかし、すぐに私の母(姪の祖母)が「〝私は〟って言わないとダメでしょう?」とやんわり注意していたので、こんど会う時にはもう「ボクは~」なんて言わなくなっていることでしょう(ちょっと残念な気もしますが…)。もしも、この時、姪の言葉遣いを正す人がいなかったら、姪が〝ボクっ娘〟になっていた可能性もあったのかな?いや、仮にそうなったとしても、後で自分で直すでしょうね。
 まあそんなわけで、子供の言葉遣いが周囲の環境に大きく左右されるということを実感したわけです。うーむ、今度から姪や甥の前ではもう少し言葉遣いに気を付けないといけないな…。

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中野孝次『清貧の思想』

〈名利に使はれて、閑かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ…。モノとカネにふりまわされ、明け暮れする人生は真に幸福なのか?光悦、西行、兼好、良寛ら先人の生き方の中に、モノを「放下」し風雅に心を遊ばせ、内面の価値を尊ぶ「清貧」の文化伝統を見出し、バブル謳歌の日本に猛省を促した話題のベストセラー。解説・内橋克人〉



 年末年始に帰省した時、父の書棚に単行本を見つけて興味を持ったのだが、結局、読む時間がとれないまま忘れてしまっていた。少し前に古書店で本書を見かけてそのことを思い出し、この機会に読んでみることにした。中野孝次の著書を読むのは『わたしの唐詩選』に続いて本書で2冊目。
 本書は、著者が「日本文化の一側面」(そして日本文化の精髄)であると考え、海外で講演を求められたには必ず話題にしてきたという「清貧の思想」について、自らの認識を確認する意図も込めて書いたもの…らしい。単行本の刊行は1992年。

〈わたしは話を求められるたびにいつも「日本文化の一側面」という話をすることに決めて来た。内容は大体日本の古典—西行・兼好・光悦・芭蕉・池野大雅・良寛など—を引きながら、日本には物作りとか金儲けとか、現世の富貴や栄達を追求する者ばかりではなく、それ以外にひたすら心の世界を重んじる文化の伝統がある。現世での生存は能うかぎり簡素にして心を風雅の世界に遊ばせることを、人間としての最も高尚な生き方とする文化の伝統があったのだ。それは今の日本と日本人を見ていてはあまり感じられないかもしれないが、わたしはそれこそが日本の最も誇りうる文化であると信じる。今もその伝統—清貧を尊ぶ思想と言っていい—はわれわれの中にあって、物質万能の風潮に対抗している。それは現代の日本の主たる潮流だと信じているのだと、古典の詩歌を引きつつ、わたしの「清貧の伝統」と考えるところを話して来たのだった。〉(まえがき)

 本書は2部構成になっており、「清貧の思想」を体現している過去の人物たちの言葉やエピソードを紹介したのが第Ⅰ部、それらを材料にして自らの考えや思いを語ったのが第Ⅱ部。その第Ⅱ部については、最後にこうも述べている。

〈これはあえて言えばわたしの祈りのごときものである。そうあってほしいという話である。そのためにいささか美化している向きもあるだろうが、それがわたしの念願であることには間違いがない。一個の文士の夢と嗤うなら嗤え。わたしはそんな夢のような願いをもこめてこれらの話をして来た、ということだけが事実である。〉(まえがき、一部省略)

 だからなのか、第Ⅰ部で紹介されているエピソードにしても、第Ⅱ部で語られている著者の考え方にしても、少し極端ではないかと思われるものが目に付いた。全体的な印象としては、何かを強く訴えたいという気持ちばかりが先走り、あれもこれも詰め込んだものの整理しきれていない、といった感じだろうか。2度ほど通して読んだのだが、何やら気持ちの悪い感じ(あるいは腑に落ちない感じ)が消えることはなかった。



 何ものにも捕われないことを理想とする思想として、私がまっ先に思い浮かべるのが「禅の思想」なのだが、中野孝次が「清貧の思想」と考えているものは「禅の思想」に近いと感じられた。実際、第Ⅱ部でも「清貧の思想」とインド宗教哲学との共通性について述べられている。
 本阿弥光悦・鴨長明・池大雅・与謝蕪村・松尾芭蕉など、第Ⅰ部で紹介されている人物たちは日本の文化芸術を担った文化人・芸術家だが、その日本文化の底流には「禅の思想」が流れているとは、たしか鈴木大拙『禅と日本文化』に書かれていたことだったか?また、言うまでもなく、良寛は禅僧だ。

 少なくとも、際限のない物欲に捕われず、心をゆたかにする生き方を…という「清貧の思想」の「清」の部分に関しては、まさしく「禅の思想」に通じる考え方だと思う。
 ただ、私が本書に気持ちの悪さを感じるのは、残る「貧」の部分に関してなのだ。大切なのは心の有り様であって、「清」であるためには「貧」でなければならないということにはなるまい。なにも自ら進んで貧しくなる必要はないのではないか?

 本書を読んでいる間中ずっと、私の脳裏には坂口尚『あっかんべェ一休』がちらついていた。その文庫版上巻の中にこんな場面がある。
 一休は第二の師である華叟老師のもとで修行して悟りを得るが、老師が渡そうとした印可証を「そんなもの、ただの紙きれではありませんか!!」と固辞する。それからしばらくの間、一休は迷妄の中で放浪の旅を続けた後、再び老師のもとへ帰ってくる。再会した一休と老師はこんなやり取りをする。

「どうじゃ、一休、元気でやっておるか…。わしも年じゃのォ。年をとるとまるで赤子じゃ。」
「老師様!な、なぜ、なぜここでなければならないのでしょうか!?」
「なんのことじゃ?」
「叢林の内にある大徳寺を出たのは得心しますが、京を離れ、この静かな堅田へ来たことは、濁と清を分けたことになりませぬか!?」
「安心した。元気じゃな、一休…。」
「一休よ、わしと謙翁とは想うところは同じじゃ…。ただ行き方が違うのだ…。」
「のォ、一休…、出家した者の本当のこころざしとは真に世を捨てることじゃ。そういうわしが、この修行専一の道場におまえが京から内職を持ち込んだことを許したのはなぜかわかるか?
 わしは出家も在家も区別はせん。しかし真に世を捨てるとは、形はどうあれ、出家者の〝心〟を持つことが絶対にあらねばならんと思うのだ。人は、形つまり戒律によって厳しくせねば気をゆるめてしまう…。限りなく甘えてしまうのだ。〝形〟そのものが人の心を律することができるのだ。」
「ですが、それでは今度は〝形〟にとらわれてしまうのでは?」
「ウム、その通りだ。形のための〝形〟になってはならぬ。〝主義〟となってはならぬ。そうなれば、開悟した者でも再び迷妄の中へ落込むだろう。
 一休よ。印可証は紙きれだが、紙きれではないのだ。紙きれではないが、紙きれなのだ。悟りを得たおまえにはこの意味がいっそう迫って来よう…。」
「ろ、老師様。クッ…。」

 そういう意味で言えば、あえて「貧」という〝形〟から入ることも有効なのかもしれない。だが、中野孝次の言う「清貧の思想」では、「貧」が〝形〟ではなく〝主義〟になってしまっているように思われるのである。



〔関連記事〕
中野孝次『わたしの唐詩選』(2016-11-21)

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萩尾望都『トーマの心臓』

〈冬の終わりのその朝、1人の少年が死んだ。トーマ・ヴェルナー。そして、ユーリに残された1通の手紙。「これがぼくの愛、これがぼくの心臓の音」。信仰の暗い淵でもがくユーリ、父とユーリへの想いを秘めるオスカー。トーマに生き写しの転校生エーリク…。透明な季節を過ごすギムナジウムの少年たちに投げかけられた愛と試練と恩寵。今もなお光彩を放ち続ける萩尾望都初期の大傑作。〉



 私はもういい歳をした男性ですが、今でもたまに少女漫画を読むことがあります。たしか去年の春頃、『ポーの一族』の続編が雑誌に掲載されるというニュースを知り、久しぶりに萩尾望都の作品を読み返してみようかと思ったのですが、その時、まっ先に思い浮かんだのが『トーマの心臓』でした。
 萩尾望都の作品と出会ったのは、ちょうど漫画全般にハマり始めていた大学生時代。『11人いる!』『ポーの一族』『トーマの心臓』など何作か読みましたが、なぜか『トーマの心臓』を読んだ時だけ他とは違う衝撃を受けたんですよね。読んだ後にちょっとした虚脱状態になった記憶があります。

 この作品のどこにそれほどの衝撃を受けたのか、正直、自分でもよく分かりません。ただ、今回ひさしぶりに読み返してみて思い当たったのは、ひょっとすると受験生時代にすっかり干涸びてしまった私の心が、どうしようもなく愛に飢えていたのかもしれないということ。
 この作品から受け取ったメッセージは、「人が幸せになるためには、〝愛すること・愛されること〟〝信じること・信じられること〟が必要」ということ。それを、今の私は頭で理解してしまうわけですが、当時の私は頭で理解する前に心で感じ取ってしまったのかもしれません。



 本作を読み終えてから他の読者のレビューを拝見したのですが、1つ疑問に思ったことがあります。それは、キリスト教を理解していないと本作はよくわからないのではないか?ということ。たしかに、この〝謎解き物語〟はキリスト教的要素がポイントとなるように組み立てられているわけですが…。
 〝愛すること・愛されること〟〝信じること・信じられること〟それが生きていく力になるということにおいて、キリスト教も含めて宗教的要素は関係ないですよね。そして、だからこそ、多くの日本人読者が本作から何かを感じ取ることができるのだと思います。

 また、読み終えてから改めて気が付いたのは、冒頭のタイトルページにあるトーマの手紙に最初から答えが示されているということです。つまり、この手紙こそが本作の核心なんですよね。
 トーマの身投げ(?)の動機、ユーリに宛てた遺書(?)の意味。その答えが最後に明らかになるまでの間、主にユーリとエーリクそしてオスカーを中心にいくつかのエピソードが描かれるわけですが、すべて冒頭の手紙の意味を確認していく作業なのではないか?という気がしました。

 最後に、以下に引用したのは例の冒頭の手紙の一節です。少年どうしの愛を描いているということでキスシーンなんかも出てきますが、この一節からも分かるように、本作はBL(ボーイズラブ)モノというわけではありません。そういう部分も含めて、本作は心理学的分析の格好の対象ですよね。河合隼雄あたりがどこかで取り上げていそうです。うーむ、もしも何か書いているならば読んでみたい気もしますが…。

〈ぼくは成熟しただけの子どもだ ということはじゅうぶんわかっているし
 だから この少年の時としての愛が 
 性もなく正体もわからないなにか透明なものへ向かって
 投げだされるのだということも知っている〉


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藤沢周平『蟬しぐれ』

〈朝、川のほとりで蛇に咬まれた隣家の娘をすくう場面からはじまるこの物語、舞台は藤沢読者になじみ深い海坂藩である。清流と木立に囲まれた城下組屋敷。淡い恋、友情、そして悲運と忍苦。ひとりの少年藩士が成長してゆく姿をゆたかな日明のなかで描いたこの作品は、名状しがたい哀惜をさそわずにおかない。解説・秋山 駿〉



 短編連作集『たそがれ清兵衛』『橋ものがたり』で藤沢時代小説の良さを知り、そろそろ長篇小説にも手を出してみようと思ったものの、ざっと20作品(シリーズものの続篇まで含めると30作品)以上もあって、はてさてどれから読んだものやら…と迷ってしまった。
 結局、向井敏『海坂藩の侍たち』の〈藤沢周平の数ある武家物語のなかで、とりわけて柄が大きく、読者にもたらす感慨の濃さ深さのうえでもたちまさっている〉という一言が決め手となり、まずは本作『蟬しぐれ』から読んでみることにした。単行本の刊行は昭和63年(1988年)。

〈何気なく持って帰り、夜、枕頭に置いて読み出したら、いつの間にか朝になっていた。少年の日のように読んで徹夜してしまったのだ。私は文芸批評を始めてほぼ三十年に達する。本を読むことにかけては、すれっからしである。この『蟬しぐれ』は、そんなすれっからしを、少年の心に還してくれた。すべての物に鋭敏に心を働かせ、何に対しても率直に感動する、そんな少年の心に人をして還らせること。それがこの作品の持つ第一の徳であった。六十に近い男が徹夜したのの、朝、心気は晴朗であった。〉(一部省略)

 …と述べているのは、解説を担当した秋山駿。
 私自身、物語の続きが気になってしまい、いつもの電車内読書だけでは満足できず、何かと空き時間を見つけては本書を手に取った。小説にこんなにも夢中になったのは、本当に久しぶりのことかもしれない。
 文庫版にして約450ページ、最初から最後まで飽きることなく楽しむことができたわけだが、読後の感触としては「晴れ晴れと爽やかだが、どこか一抹の寂しさもあり、しみじみと気持ちよい」と言ったところだろうか。とにかく、良かった!



 ところで、藤沢周平の長篇小説を読むにあたって確認しておきたかったことが一つあった。以前『たそがれ清兵衛』を読んだ時にBLOGの記事でも引用したが、それは向井敏が次のように述べていたこと。

〈物語はすみずみまできちんと練りあげられ、どんなに錯綜した人間関係を扱っていても話の運びにおよそ乱れというものがない。何人もの登場人物、いくつもの挿話がそれぞれ所を得て物語をしっかりと支え、やがて大詰めの劇のなかになめらかに収斂されていく。この作家は、思わせぶりに姿を見せながら行方知れずになってしまう人物や、あぶくのような思いつきの挿話を持ちこんで、読者をしらけさせるような愚はけっして冒さない。だからといて、いかにも理詰めに組み立てたといったふうな窮屈でこざかしげな感触とは無縁、作品はつねにつらりと姿よく仕上げられる。〉

 展開の乱れ、設定の矛盾、意味不明な登場人物や挿話など、とくに連載形式で書かれた長篇小説にありそうなことだ。本作『蟬しぐれ』もまた「山形新聞」誌上で連載された作品だったのだが、本当に向井敏の言うような作品に仕上っているのだろうか?
 実際に読んでみると、まさしく向井敏の言う通りで、「ああ、あの時のあれはここでこう繋がるのか!」という場面が何度もあった。そして、そこにわざとらしさというものが微塵も感じられない。
 実は、本作が連載小説だったことは読み終えてから知った。てっきり書き下ろし作品だとばかり思っていたため、そのことに非常に驚くと同時に、藤沢周平の作家としての上手さに唸らされた。

 こうなるともう1作の長篇『三屋清左衛門残日録』も気になってくる。というのも、2作とも最後の場面があまりにも似通っていることなどを挙げながら、向井敏がこんなふうに書いているから。うーむ、これは読んでみなければなるまい。

〈物語の舞台は同じ、執筆の時期もほぼ同じだったが、ただしこの二つの長篇は、筋立てや主人公の立場はもとより、主題も描法も対照的といいたほどに異なっていて、作者は二作をいわば一対の作品として、互いに他を補完しあうような物語に仕上げようともくろんでいたのではあるまいかとさえ思われる。〉



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藤沢周平『たそがれ清兵衛』(2017-01-16)

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