藤沢周平『花のあと』

〈娘ざかりを剣の道に生きたある武家の娘。色白で細面、けして醜女ではないのだが父に似て口がいささか大きすぎる。そんな以登女にもほのかに想いをよせる男がいた。部屋住みながら道場随一の遣い手江口孫四郎である。老女の昔語りとして端正にえがかれる異色の表題武家物語のほか、この作家円熟期の秀作七篇! 解説・桶谷秀昭〉



 久しぶりに読んだ藤沢時代小説は、武家もの市井もの織り交ぜて、表題作を含む8篇を収録した短編集『花のあと』。各篇の題名は次のとおり。「鬼ごっこ/雪間草/寒い灯/疑惑/旅の誘い/冬の日/悪癖/花のあと」
 単行本の刊行は昭和60年(1985年)だけれど、各作品の発表時期は昭和49年〜昭和60年と、けっこう幅があるらしい。「疑惑/旅の誘い」の2篇が昭和49年で、他の6篇は昭和58年〜昭和60年。両者の間には10年前後の時間経過がある。

 先に発表された2篇は、物語の内容も含めて、終始、ピンと張りつめた緊張感が漂っている。どちらも、最後の場面で人間の本性が滲みでる様を描いているためか、読み終えた後に澱のようなものが微かに残った。
 後に発表された6篇は、まさしく私の知っている藤沢時代小説。誰かを想う気持ち、誰かを思いやる気持ち、そしてそこから生まれる言葉と行動。武家ものと市井ものとで感じられる温度や硬度に違いはあるけれど、根っこには同じ優しさ暖かさがある。読後感は、すっきりさっぱり清々しい。

 あいかわらず物語も文章もすっきりと整っていて、8篇とも安心して楽しむことがきでた。私自身は(おおげさな言い方をすれば)〝なにも思い残すことなくパタンッと本を閉じることができる作品〟が好きなので、あえて気に入った作品を挙げるならば、「雪間草/冬の日/花のあと」の3篇。
 あらためて思ったのは、藤沢時代小説では描かれている女性が魅力的だということ。それは、主役であろうと脇役であろうと端役であろうと変わらない。それにしても、〝男性作家が描く女性を、男性読者の私が読む〟から、描かれている女性に魅力を感じるのだろうか?女性読者には作中の女性たちはどう映るのだろう?



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ポール・ギャリコ『スノーグース』

〈大沼のそばの燈台小屋に住む画家のラヤダーは、野生の鳥たちだけを友だちにひとりっきりで暮らしていた。ある日傷ついた白いグースを抱いた少女が燈台を訪れて…。孤独な男と少女のひそやかな心の交流を描いた表題作ほか、動物への暖かな眼差しで描かれた「小さな奇跡」「ルドミーラ」の二篇を収録。『ジェニィ』『雪のひとひら』のギャリコが贈る、永遠に愛されるファンタジーの名作。〉



 ポール・ギャリコの作品を読むのは、『七つの人形の恋物語』に続き、これで2冊目となる。収録作品は「スノーグース」「小さな奇跡」「ルドミーラ」の3篇。表題作「スノーグース」は『七つの人形の恋物語』にも矢川澄子による翻訳が収録されていたので、初読となるのは「小さな奇跡」「ルドミーラ」の2篇。

 『七つの人形の恋物語』を読んだときと同じく、やはり物語として上手く創られているなぁ…という印象。ただし、誤解のないように言っておくと、だからといって作為的な感じはしない。そこが、ポール・ギャリコという作家のすごいところ。
 そして、やはり矢川澄子の手による訳文は美しい。ですます調の文章がもつ静けさと優しさとが、原作の雰囲気によく合っている。また、そういう文章だからこそ、原作者の優しさ温かさが読者の心に浸透してくるのだと思う。

 挿画は建石修志による鉛筆画。とくに「小さな奇跡」「ルドミーラ」の2篇は神父が重要な役割を担っている物語なので、挿画のもつ静謐で神秘的な雰囲気がよく似合う。ただ、作者が小さく弱いものたちにそそぐ眼差しの温かさが、挿画からはあまり感じられなかったのが残念。



 「小さな奇蹟」では、自分の驢馬を助けたいという一心でとった少年の行動が、結果的に、昔の壁の中に隠れていた聖遺物の発見につながるのだけれど、題名にある〝小さな奇蹟〟が指しているのはそれだけではないだろう。
 バケツリレーのように、あるいはドミノ倒しのように、あるできごとが次のできごとを引き起こし、それがまた次のできごとを引き起こす。偶然が偶然を呼ぶのか、必然が必然を呼ぶのか?どちらに解釈するとしても、その一つ一つこそが小さな奇蹟なんだと思う。

 訳者はあとがきのなかで、「小さな奇蹟」における〝奇蹟〟の意味を十分に読み取るためには、「ルドミーラ」に登場するポルダ神父の台詞に耳を傾けるのが早道かもしれないとして、こう述べている。
 〈ここでは時代は十九世紀にさかのぼり、科学と恩寵、合理主義と信仰との境界が静かに根底から問い直されているような気がします。〉

 そのポルダ神父の台詞というのは、ある奇蹟的なできごとを合理的に説明する牧夫長アロワに向けて言ったもの。
 「奇蹟ってものは、じっさい、奇蹟なんてきっと合理的に説明のつくもんだと思っている人々には、説明のつくものなのさ。ただそんなことは、自分たちがかくあるべしと信じこんだことほど重要ではないってことを、連中は白状させられたくないだろうがね。」

 恩寵や信仰といった宗教的な事柄と無縁な私が感じたのは、あるできごとを奇蹟だと信じることと、それを合理的に説明可能とすること、この2つは対立もしないし矛盾もしないということ。
 ただ、こう言ってしまうと元も子もないのだけれど…。あるできごとを奇蹟だと信じる人にとっては、それが合理的に説明可能かどうかなんて、正直、どうでもいいことだと思う。



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ポール・ギャリコ『七つの人形の恋物語』(2017-10-23)

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シェイクスピア『リア王』(新潮文庫)

〈老王リアは退位にあたり、三人の娘に領土を分配する決意を固め、三人のうちでもっとも孝心のあついものに最大の恩恵を与えることにした。二人の娘が巧みな甘言で父王を喜ばせるが、末娘コーディーリアの真実率直な言葉にリアは激怒し、コディーリアーを勘当の身として二人の姉にすべての権力、財産を譲ってしまう。老王リアの悲劇はこのとき始まった。四大悲劇のうちの一つ。〉



 『リア王』を読もうと思った理由は、シェイクスピアに興味があったからではなく、福田恆存が邦訳を担当していたから。初めに期待していた通り、訳文はとても読みやすかった。文章の調子は軽すぎもせず重すぎもせず、登場人物それぞれの台詞を、その身分や性格もしっかり考慮しながら訳し分けてある模様。

 もともと舞台で演じることを前提として書かれた戯曲なので、わずかなト書きを除いてほぼすべてが台詞。場面が転換するところなどは多少まごついたりもしたけれど、最後まで飽きずに読むことができたのは、物語として上手く構成されているからだろうか?

 また、福田恆存は解題の中で、トルストイによる2つの『リア王』批判に応える形式で、本作がシェイクスピア悲劇の最高峰であることを上手く解説している。この解題が載っていたことは嬉しい誤算だった。上手い訳文と説得力ある解題、1冊で2度おいしいとは当にこのこと。



 解題によると、本作の主題の1つは「親子間の愛情と信頼」。
 愛情にしろ信頼にしろ、相手に見返りや証しを求めた時点ですべて崩れ去ってしまうものではないだろうか?たとえ裏切られたとしても構わない、けっして相手を恨んだりはしない…それくらいの覚悟が必要なものだと思う。

 ところが、リア王は自分の遺産を分配するにあたって、3人の娘に自分への愛情を言葉で表現するよう求めてしまった。その瞬間、3人の娘にたいするリア王自身の愛情や信頼はすべて崩れ去っている。
 ひょっとすると、リア王の悲劇は、娘たちの真意を読み取ることができなかったこと以前に、娘たちの気持ちを確かめようとした時から始まっていたのではないだろうか?



 気になったのは、道化の存在。リア王のそばにはいつも道化がいて、ぞんざいな言葉遣いでリア王を批判し嘲笑する。本編を読んでいる最中は、この道化の存在がとても不気味だった。文字通り〝浮いている〟ような印象で、存在感はあっても実在感はなく、神でもなければ悪魔でもなく、あえて言うならば〝幽鬼〟だろうか。

 読み進めていくうちに、〝道化〟という言葉から〝ピエロ〟そして〝クラウン(王冠)〟という言葉が頭に浮かんできて、まるで道化が王の影のような存在にも思えてきた。もちろん、ピエロの別称である〝クラウン(王冠)〟という言葉は、シェイクスピアとは何の関係もない。

 ただ、解題ではこの道化についても触れていて、〈(リア王は)道化の笑いによって、みずからを笑い、更にその笑いを超えた者として我々の前に現れるのである〉と説明している。道化を王の影であるように感じたのは、さほど不思議なことではないのかもしれない。

 ちなみに解説によると、当時、道化は職業として確立しており、王侯貴族に召抱えられていたらしい。そして、その役割は滑稽な身振りや言葉遣いで周囲の笑いを誘うことだったとのこと。私は本編を読み終えてから知ったのだけれど、これはあらかじめ知っておくべきことなのだろう。


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福田恆存『私の幸福論』

〈人間は不平等だ。悪いといおうが、いけないといおうが、事実だ。しかし現実がどうであろうとこの世に生まれた以上、あなたは幸福にならねば…。誤った幸福観を正し、人間の本当の生き方とは何か、幸福とは何かを、平易な言葉で説いた刺激的な書。解説 中野翠〉



 女性誌『若い女性』における著者の連載「幸福への手帖」(1955年〜1956年)をまとめたもの。収録されている随筆(というよりも小論)は全部で17編。ただし、連載誌は女性向けの雑誌でも、内容は女性〝だけ〟に向けられたものではない。目次は以下の通り。

「美醜について/ふたたび美醜について/自我について/宿命について/自由について/青春について/教養について/職業について/「女らしさ」ということ/母性について/性について/ふたたび性について/恋愛について/ふたたび恋愛について/結婚について/家庭の意義/快楽と幸福」

 福田恆存の著書を読むのは『増補版 私の國語教室』に続いて本書で2冊目。今どき「幸福」なんていう言葉を使われると胡散臭く聞こえてしまうため、読み始める前は一抹の不安があったものの、すぐにそれはただの杞憂だとわかった。
 なにしろ、女性誌上での連載1回目にしていきなり「美醜について」と題し、容姿の醜い女性の方が損をするのは残酷だけれども動かしがたい現実だ、と断言しているのだ。この時点で、本書が一読する価値のある1冊だと確信した。

 著者は明晰な論理と平易な文章による絶大な説得力を持って、目次に並んでいる様々な項目について、冷酷な現実を厳しく突きつけてくる。普段ならば見て見ぬ振りをして楽にやり過ごそうとしていることについて、まっすぐに向き合って考えることを要求してくる。
 そういえば、まえがきにもこんな一文があった。〈現実がどうであろうと、みなさんは、この世に生まれた以上、幸福にならねばならなぬ責任があるのです、幸福になる権利よりも、幸福になる責任について、私は語りたいとおもいます。〉

 現実世界において、人間は自由でもなければ平等でもなく、しかも孤独な存在でしかない。…けれども、そのことをしっかり自覚しながらも、そのことに囚われないように生きること。自分の短所や弱点をきちんと認めた上で、なおかつ伸び伸びと生きること。
 恋愛にせよ結婚にせよ家族にせよ、人間どうしの間に完全な関係や永遠の関係はあり得ない。それは、結合しようとする力と分離しようとする力がつねに同居しているものだから。ならば、その結合と分離を繰り返す中で、互いの関係を深めて強くしていくしかない。

〈厳密にいえば、私の文章は「幸福への手がかり」を暗示しただけです。「幸福とはなにか」ではなく「幸福とはなんでないか」を語っただけです。
 が、つぎのことだけはいっておきたい。私たちが日ごろ口にする「不幸」というのは、ただ「快楽」が欠けているということであり、「快楽」でないということにすぎない。したがって、私たちは、その意味の「不幸」のうちにあっても、なおかつ幸福でありうるのです。真の意味の幸福とは、そういうものであります。〉

 最後に、たぶん今後なんども再読することになるだろうし、その度いろいろ考えさせられるのだろうと思うけれど、今回続けて2度ほど読んでみて1つだけ気になったことがある。それは、「観念」という言葉が〝否定的な文脈において〟やたら目についたということ。
 頭で考えたことだけで、頭で理解できた知識だけで、何でもかんでも上手くいくと思ったら大間違いだよ。言葉にできることや、数値化・数式化できることだけでは、大切なことを見失ってしまうよ。…優れて論理的な著者の思考の根底に、そんな姿勢があるように感じられた。



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福田恆存『増補版 私の國語教室』(2017-06-05)

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ポール・ギャリコ『七つの人形の恋物語』

〈お金も仕事も失った孤独な少女ムーシュは、言葉を話す七つの人形と出会い、謎めいた一座の長キャプテン・コックと旅と舞台を共にすることに。人形という存在を通して二人の間に芽生える深く純粋な愛の物語を、ストーリーテラーとしての抜群の才能で描いた表題作に加え、著者の名声を国際的にゆるぎないものにした名作「スノーグース」を、矢川澄子による静謐で感受性豊かな名翻訳で贈る、ギャリコ・ファン必携の豪華版。〉



 本書の表題作『七つの人形の恋物語』は、河合隼雄『ファンタジーを読む』で紹介されていた児童文学(?)の1つで、臨床心理学的な解釈・解説よりも物語そのものに興味を惹かれた作品。ギャリコの書いたものでは『トマシーナ』も気になっているのだけれど、それはまた別の機会に…。
 一通り読み終えて感じたことは、物語として非常に上手く創られているということ。河合隼雄はそこにやや不満を持っていたらしい。私自身はというと、素直に感心(いやむしろ感嘆)してしまった。原作が発表されたのは、『スノーグース』1941年、『七つの人形の恋物語』1954年。

 これは収録されている2作ともに言えることだけれど、矢川澄子による日本語訳が本当に素晴らしい。読んでいてまったく違和感がないどころか、日本語訳だということを忘れるほどだった。まさに「名作に名訳あり」と言ったところだろうか。
 例えば『七つの人形の恋物語』では、7つの人形たちは容姿はもちろん性格もそれぞれ違っており、当然それは台詞の内容からも分かるのだけれど、矢川澄子は上手く言葉遣いを訳し分けて表現している。



 夢も希望も打ち砕かれ、すべてを失って身投げ寸前だった少女ムーシュ。自分の殻に閉じこもり、何もかもに反発して生きてきた人形使いコック。世の中に絶望しているこの2人が、7つの人形を介して出会い、7つの人形を介して知らず知らず惹かれあっていく。

 人形たちはムーシュを温かく迎え、暗く沈んだ心を癒し、そして生きる希望を与える。ムーシュと人形たちの会話は、そのまま観客たちを前にした人形劇でもある。読者は観客たちと並んでその会話を楽しんでいる間に、自分たちの心まで温められてしまう。
 しかし、ムーシュと人形たちが会話をしている間、その人形たちを操るコックは幕の裏側に隠れている。そして、コック本人としてムーシュと接する時はいつも、愛情のかけらもない冷酷そのものの態度をとるのだ。人形たちとコック本人の態度が正反対なのは何故?

 コック自身もムーシュに惹かれているはずなのに、それまでの彼の生き方がそうさせるのか、自分の気持ちを認めることを拒み、徹底的に否定するような言動を取ってしまう。だが、コック自身がムーシュにいつも以上に冷たく当たった後は、人形たちは逆にいつも以上に温かく接してくれるのだ。
 追い詰められて追い詰められてようやく、コックは自分の気持ちを素直に認めることになるわけだけれど、そんなあまりにも不器用で無様で哀れなコックを救うことができたのは、純粋さの塊のようなムーシュだったからこそなのかもしれない。


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