藤沢周平『周平独言』

〈歴史を生きる人間の風貌を見据える作家の眼差し、自らの生い立ち、故郷、日常の風景にふれて人生のぬくもりを刻む。豊かな情感で時代小説に独自の境地を拓く藤沢文学の軌跡を綴る全エッセイ集。〉



 本書は藤沢周平による1冊目のエッセー集。単行本の刊行は昭和56年(1981年)。収録されている全64篇のエッセーは、大きく4つに分類されている。
 「時代のぬくもり」は歴史上の人物や時代小説・歴史小説に関するもの15編。「三つの城下町」は故郷に関するもの9編。「周平独言/汗だくの格闘」は日常の出来事やその他諸々の雑多なもの40編。

 「時代のぬくもり」には歴史上の人物に関するものが8篇あるが、私には歴史云々に対する苦手意識があるため、実はまだほとんど未読の状態。ただ、題名を見るかぎりでは、著者の小説に取り上げられた人物に関するものらしいので、その小説を読んだ後で、あらためて読むつもりでいる。
 また、同じく「時代のぬくもり」に分類されている、時代小説・歴史小説に関する著者の考えを述べた7編には、向井敏『海坂藩の侍たち』で引用されていたものも多い。どちらも鉛筆片手に読んでいたのだが、まったく同じ文章に線引きをしていたのには、我ながら思わず苦笑してしまった。

 あとがきによると、これらのほとんどは〈たわいもない日常茶飯のこと、たとえば炉辺のむだ話のような文章〉であり、〈そういう性質の文章を本にすることに釈然としない気持は、このあとがきを書いているいまもまったく消えたわけではない〉らしい。
 そんな著者も、結局、作家について知りたいと思う読者には日常の言葉で語ってもいいのではないか?エッセーにはそういうメッセージとしての効用も含まれているのではないか?と考えることで納得したとのこと。
 そういう狙いは、ある程度は果たせているのだと思う。ただし、少なくとも日常もののエッセーとしては、ごくごく普通といった印象で、時代小説ほど強い魅力は感じられなかった。



 向井敏『海坂藩の侍たち』では、作家・藤沢周平については詳しく書かれていても、作家ではない〝ただの人〟藤沢周平についての記述はほとんどなかった。だから、「三つの城下町/周平独言/汗だくの格闘」の49編は、〝ただの人〟藤沢周平が見えてくるという意味で新鮮だった。
 そこから見えてくる藤沢周平という人物は、どうひいき目に見ても普通のおじさんだ。こんなに普通のおじさんが、あんなに面白い小説を書くのかと思うと、とても不思議な感じがする。
 ただ、ものの見方や考え方に関してバランスの取れた人という印象もあって、それは著者の作る物語が端正であることと符合しているようでもある。

 バランスということに関しては、例えば「流行嫌い」という一編にこんな文章がある。

〈悲しむべきことだが、戦争の過程にも流行の心理があらわれ、人を熱狂させるのである。私には、流行というものが持つそういう一種の熱狂がこわいものに思える。人を押し流すその力の正体が不明だからである。それがダッコちゃんにも結びつくが、戦争にも結びつく資質を持っているからだろう。〉

 そして、その後こう続ける。一歩身を引いた冷静な視点は、きちんと自分自身にも向けられている。

〈なんというか、ほかにもっと理屈抜きの流行嫌いの気持がある。理屈より先にはやりだからいやだと気持が先立つ。こういう気持の動きが、決して上等のものでないことが、自分でもわかっている。やはり一種のヘソ曲りで、偏屈でいやらしいところがある。これは何だと、自問自答することがあった。〉(一部省略)

 また「えらい人」という一編には、小説家らしく(?)こんな文章がある。

〈私は正確に片ムチョなところがあり、また作家という商売柄、人間の美しさをも追いもとめる反面、汚さも見落とすまいとするので、世間でえらいという人をも簡単には信用しない。〉
〈物を書くようになってから二度ほど、狂気というものを垣間見た気がしたことがあった。ついそこに、ちらりとそれが見えて、ははあそこを越えると狂うな、と思いながらも私は引き返したが、引きこまれるような感じが無気味だった。〉

 そうならないように、著者は酒を飲んだり、碁会所に行ったり、パチンコをしたりするのだが…。昼日中からパチンコをしいている自分の姿を振り返ってこう述べる。

〈この格好ひとつとっても、人に尊敬される立場にある人間でないことは明白である。勤め人から物を書く商売に変って、私は少し堕落したという感じを持っているが、この感覚は多分正しいのだ。〉

 こういう、自分自身も含めて対象と適度な距離を保とうとするバランス感覚は、作家になってからと身に付いたわけではなく、多分もともと資質として持っていたものなのだと思う。



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藤沢周平『驟り雨』(2017-03-20)
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河合隼雄『ファンタジーを読む』

〈「現実というのは思いのほかに多層性をもっている。自分が見ている『この世界』がすなわち唯一の現実だと思いこむのは浅はかすぎる」と言う心理療法家・河合隼雄が選びぬいた13の物語には、「人間のたましい」「隠された自己」が衝撃的に描きだされる。
 そして、そこには、人が人生のさまざまな場面で遭遇する「こころの問題」を解くカギが秘められている。〉



 以前読んだ『子どもの本を読む』の姉妹編。本書でも、河合隼雄が取り上げた児童文学作品のあらすじを紹介しつつ、心理療法家という立場から解説と感想を述べていく。取り上げられているのは、児童文学作品の中でもファンタジーとされている物語たち。単行本の刊行は1991年。
 心理療法家・河合隼雄が〝たましい〟と呼ぶもの。心と身体、意識と無意識、それらをバランスよく統合して、人間を人間たらしめている何か。本書で取り上げられている13のファンタジーには、その〝たましい〟のはたらきが描かれているという。

 河合隼雄によるこの手の本は、すでに何冊か読んでいる。本書でも、取り上げられている作品が違うだけで、著者の述べていることに変りはない。ただ、本書はあらすじ紹介に割いている分量がやや多めだろうか。
 また、何か重要なことを述べているようなときでも、よく考えてみると実は当り前のことでは?と感じられる場合が多い。私がそう感じるのは、すでに同じような本を何冊か読んでいるからなのか?あるいは当り前のことほど重要だからなのか?

 以前、取り上げられた作品を読む際には、河合隼雄の解釈に引き摺られないように気をつけたい、といったことを書いたことがある。本書はいわばレビュー集だから、「なるほどこういう読み方もできるのか…」と、あくまでも参考程度に止めておくべきだと思う。
 肝心の作品そのものを読まないと意味がない。他人の書いた解説と感想に満足して、作品そのものを読まないのでは、文字通り本末転倒だ。何かを得られるとすれば、それは本書からではなく各作品からであるべきだし、そうであるはずだから。まあ、これは自戒の意味も込めて…。

 本書で取り上げられている13作品は以下の通り。私がとくに気になったのは、リンドグレーン『はるかな国の兄弟』、ギャリコ『七つの人形の恋物語』、そしてル=グウィン『ゲド戦記』3部作。

ストー『マリアンヌの夢』
ゴッデン『人形の家』
リンドグレーン『はるかな国の兄弟』
ギャリコ『七つの人形の恋物語』
カニグズバーグ『エリコの丘から』
ピアス『トムは真夜中の庭で』
ノートン『床下の小人たち』
マーヒー『足音がやってくる』
マクドナルド『北風のうしろの国』
ボスコ『犬のバルボッシュ』
ル=グウィン『影との戦い ゲド戦記Ⅰ』『こわれた腕輪 ゲド戦記Ⅱ』『さいはての島へ ゲド戦記Ⅲ』

 

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藤沢周平『三屋清左衛門残日録』

〈日残りで昏るるに未だ遠し—。家督をゆずり、離れに起臥する隠居の身となった三屋清左衛門は、日録を記すことを自らに課した。世間から隔てられた寂寥感、老いた身を襲う悔恨。しかし、藩の執政府は紛糾の渦中にあったのである。老いゆく日々の命のかがやきを、いぶし銀にも似た見事な筆で描く傑作長篇小説! 解説・丸元淑生〉



〈物語の柄といえば、藤沢周平の数ある武家物語のなかで、とりわけて柄が大きく、読者にもたらす感慨の濃さ深さのうえでもたちまさっているのは、『蟬しぐれ』と『三屋清左衛門残日録』の二長篇。
 この二つの長篇は、筋立てや主人公の立場はもとより、主題も描法も対照的といいたいほどに異なっていて、作者は二作をいわば一対の作品として、互いに他を補完しあうような物語に仕上げようともくろんでいたのではあるまいかとさえ思われる。〉(一部省略)

 私にとっての〝藤沢周平ガイドブック〟である向井敏『海坂藩の侍たち』、そこにあるこの文章が決め手になって、まずは『蝉しぐれ』を読んだ。それから2ヵ月ほど経ってしまったが、もう1つの長篇『三屋清左衛門残日録』を読むことにした。
 藤沢周平の時代小説はまだ数冊しか読んだことはないが、私は彼の小説家としての上手さにすっかり魅せられてしまっており、彼の作品なら〝はずれ〟はないだろうという安心感を持って読み始めた。



 主人公・三屋清左衛門は、御小納戸見習いから用人にまで出世した人物。藩主の代替わりを機会に家督を息子に譲り、齢52にして隠居することにした。しかし、実際に隠居の身になった清左衛門が覚えたのは、想像していたような〝楽隠居〟からは程遠い感覚だった。
 本作はその気持の揺らぎを描くところから始まる。実際に退職や〝リタイヤ〟をした人も同じ様に感じるのかは分からない。だが、私はここでグイッと首根っこを掴まれ、一気に物語に引き寄せられてしまった。

〈清左衛門自身は世間と、これまでにくらべてややひかえめながらまだまだ対等につき合うつもりでいたのに、世間の方が突然に清左衛門を隔ててしまったようだった。多忙で気骨の折れる勤めの日日。ついこの間まで身をおいていたその場所が、いまはまるで別世界のように遠く思われた。〉

 しかし、清左衛門は元用心ということもあってか、隠居後も公私ともに様々な問題に関わることになり、それらの解決に忙しい日々を送り始める。こうして物語が動き出してしまえば、一読者である私としては、あとはただただどっぷりとその中に浸るだけだ。…ということで、非常に面白かったです。
 一つ一つの問題を解決する短い話が連なっているため短編連作集のようにも見えるが、これら小さな話は一つまた一つと大きな物語の中に取り込まれていく。本作はやはり長編小説なのであり、『蝉しぐれ』を読んだ時と同様、物語作りの上手さには本当に感心させられた。



 さて、敢えて『蝉しぐれ』と『三屋清左衛門残日録』から受ける印象の違いを言うとすれば、こんな感じになるだろうか。

 『蟬しぐれ』では15歳の主人公・牧文四郎が成長していく様子を描き、『三屋清左衛門残日録』では52歳の主人公・三屋清左衛門が隠居してからの様子を描いている。だからなのか、文四郎が未来を追いかけるのに対し、清左衛門は過去に追いかけられているような印象があった。
 また、どちらの主人公も様々な問題を解決していくのだが、文四郎には「世間と関わりながら全力で真直ぐに敵を切り伏せていく」といった鋭さを感じたが、清左衛門には「世間から一歩身を引いた立場で余裕を持ってスッスッと敵を去なしていく」といった柔らかさを感じた。

 ちなみに、向井敏が『海坂藩の侍たち』で両作に言及している章には、「青春の激情と老年の知恵」という題が付けられている。



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藤沢周平『蟬しぐれ』(2017-02-27)

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三好達治『三好達治随筆集』

〈現代日本を代表する詩人三好達治(1900ー64)は、また比類ない随筆の書き手でもあった。俗に対するはげしい嫌悪を持ちながら決して世捨人にならず、人間を愛し、鳥や虫、植物にやさしいまなざしを注いだ。長年その作品を愛読してきた編者は、69篇のエッセイをえらび、独自の観点から編集して、その醍醐味を十二分に味わわせる。〉



 去年の11月頃に読んだ「唐詩選」関連の2冊、吉川幸次郎/三好達治『新唐詩選』と中野孝次『わたしの唐詩選』は、個人的に〝あたり〟と言える良書だった。
 背表紙に「三好達治随筆集 中野孝次編」と書かれている本書を見つけて、それらの執筆者3名のうち2名が関わっているのだから〝はずれ〟はないだろう…と購入したのが去年の暮れのこと。
 収録されている随筆は全部で69編、短いもので1ページ、長いものでもせいぜい10ページほどと、朝の起き抜け読書用にちょうどよさそうなので、1日1編ずつ読んでいくことにした。ちなみに、三好達治の著書を読むのはこれが初めて。

 扱われているのは、子供時代・学生時代の思い出や、知人友人に関するあれこれ、日常における何気ない出来事や、そんな中で見かける小動物たちのことなど。
 一応〈執筆年代も単行本収録時の順序も無視して、内容別に一群にまとめ、なるべく読みやすい形で彼の随筆の醍醐味と私のおもうものを味わってもらえるよう秩序だてた〉という方針で編集されているらしいが、全体としては雑多な感じがしないでもない。

 普段着姿に下駄を引っ掛けて手ぶらでのんびり散歩するような、そんなスッと力を抜いた感じが好印象。サラリとした文章もまた読みやすく、上手いものだなと感心させられる。
 とりわけ小さな生き物たちを扱ったものが良い。優しい眼差しを彼らに注ぐ著者の姿が目に浮かぶ。そして、こちらまでその眼差しを共有しているような感じになってくる。



 例えば、「河鹿」と題された一編。

 5月の初めに温泉旅行へ出かけた著者は、宿近くの渓流で10匹ほどのお玉杓子をすくってきた。帰宅後、さっそく彼女たち(=お玉杓子)は硝子の金魚鉢に移されるわけだが、その時になってやっと著者はあることに気付く。彼女たちは何を食べるのだろうか?
 最初に試した鰹節は敢えなく失敗、女中の言う棒ふらという案もしっくりこない。彼女たちは水垢か何かを舐めるような口をしているようだが、金魚鉢に水垢が生じるのを待つわけにもいくまい。はてさてどうしたものか…。ふと思いついて、一片のパンを投げ入れてみると、これが上手くいった。

〈私は手を拍って私の発見のために喝采した。〉

 かわいいですな。こちらまで嬉しくなってきます。
 そうこうするうちに、彼女たちは手足を生じ尻尾を失い小さな小さな蛙になり、金魚鉢からの逃亡をこころみる。そこで、著者は晒し布を金魚鉢に被せることにしたのだが、ここでまたしても餌の問題が発生。大きな蠅を与えてみても、彼女たちは目もくれない。はてさてどうしたものか…。

〈そこで窮余の策として、輪ゴムで止めた覆い布のまんなかのところにいい加減の孔をあけてそこから羽虫のような小さなものが自然に落ちこむ(かな?)のを受け容れるという仕組みにした。〉

 この括弧つきの(かな?)がかわいいですな。蛙の飼育に楽しそうに頭を悩ませる著者の姿が目に浮かびます。
 結局、残ったのは〈一と月余りも手塩にかけた、大切もない二匹〉だけ。たまに仕事の手を休めては、彼女たちをぼんやり眺める著者。彼女たちは小石の上に這いつくばって、遠くを飛ぶ羽虫に狙いを定めている。そして、弾丸のようにパッと飛びついては補食する。

〈—うまい!
 私は思わずそう心中に口走って、さて自ら苦笑を禁じえないような訳でもある。〉



 気持よく読み進めていたのだが、最後の「魂の遍歴」と題された一編では、少しひっかかることがあった。
 カバー表紙の紹介文にある〈俗に対するはげしい嫌悪を持ちながら決して世捨人にならず〉云々というのは、編集を担当した中野孝次が解説で書いていること。実際、「魂の遍歴」という一編には、『清貧の思想』の著者である中野孝次が膝を打って喜びそうなことも書かれている。

〈やむをえず我々は我々の財を、財産を身のまわりにひき纏ってはいますけれども、ずいぶんと切りつめて、なるべくそれは身軽にしておくにかぎることと私は考えます。徒労を省くため、自然に近く身をおくため、また審美的にいってもそれは神経の働きをよくするように私には思われるからであります。〉

 中野孝次が〝俗〟と言う表現を使うとき、そこにはかなり極端なものが想定されている印象がある。だからなのか、私は本書を読んでいても、俗に対する〝はげしい〟というほどの嫌悪は感じられなかった。
 この〝はげしい嫌悪〟という表現には、三好達治にもそうあってほしい…という中野孝次自身の希望が含まれているのでは?また、この「魂の遍歴」という一編を最後に配置したことにも、同じ希望が含まれているのでは?
 ちなみに、本書が出版されたのは1990年、そして2年後の1992年に『清貧の思想』が出ている。


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宮脇俊三『時刻表昭和史』

〈小学1年生、2銭の切符を買って同級生と、初めて子供同士で乗った山手線。和数字の時刻表でたしかめた特急「燕」「富士」「櫻」。丹那トンネル、関門トンネルの開通 ― 。昭和という年号とともに生を享けた著者は、まさに「時代」の歩みとともに「体験」を重ねていくが、やがて、「鉄道は兵器」となり、汽車の運転は間引かれ、「時刻表」さえが入手できない世の中になっていく。
 発表と同時に各雑誌で絶賛された、世評高い、「時刻表」青春の記!〉



〈私は若者に迎合する現在の風潮に背を向けている人間だが、『時刻表昭和史』だけは、あの戦争時代を知らない若い世代に読んでもらいたくて書いた。そう言い切ってよいかとの疑問は残るが、主たる動機だったことは、たしかである。内容は昭和八年から敗戦の日までの鉄道旅行の想い出の記で、「鉄道は兵器だ」「不急不要の旅行はするな」の時代に汽車に乗ることの困難と苦難、そして駅弁の買えない食糧難、空襲のことなど、一所懸命に書いた。
 自画自賛すると、私の他の作品とちがって熱がこもっており、文章もしっかりしている。読みかえしてみて、自分の作とは思えぬほどの出来ばえである。〉(宮脇俊三『旅は自由席』)

 これは、今から2年ほど前に読んだ宮脇俊三『旅は自由席』にある一文。著者自身がここまで言うならば…と、いつか読もうと思っていた本書『時刻表昭和史』だが、今年になってようやく読むことができた。私が読んだのは、角川選書の1冊として1980年に刊行されたものの文庫版。その後さらに加筆した増補版も出ているようなので、いつかそちらも読んでみたいと思う。

 宮脇俊三というと列車旅行の紀行作家というイメージがあり、私がこれまで読んだ3冊もそういう内容だった。そのため『時刻表昭和史』という題名からは、昭和時代の時刻表を題材とした随筆か何かを想像してしまうが、本書はそういう類とは明らかに異なる。
 本書では、時刻表を1つの時間軸として利用しながら、著者が青春時代を過した昭和8年から昭和20年までを振り返る。西暦に直すと1933年から1945年、つまり戦前から戦中そして玉音放送による敗戦までである。

 例えば開高健が『耳の物語』の中で語る戦後混乱期の話もそうだったが、戦争の時代を生きた人たちの語る話というのは、なぜか読み始めるとあっという間に引き摺り込まれてしまう。
 もちろん私の知らない戦争時代を扱っているということが最大の要因だとは思うが、当時を生きた人たちが〝自分の体験〟を語るからこそ現実感と説得力が増し、そこに強い吸引力が生まれるのだとも思う。

 戦争が始まると鉄道に関しても様々な規制がかけられることになるが、実際には当時の人々がそれを素直に受け入れたわけではなく、主に食料の買い出しを目的とした旅行(?)も頻繁にしていたらしい。もちろん、著者自身も頻繁に鉄道旅行に出かけていて、各章ではその様子が詳しく語られている。
 また、食料難の時代なのだから食料確保が最優先になるのは想像できるとして、旅行先の宿に泊るにも米を持参している必要があったことなど、初めて知ることも多い。その他、歴史年表を眺めるだけでは分からない、当時の人々の風俗(生活の様子)も伝わってきて、とても興味深かった。



 さて一通り読み終えた今、もっとも印象に強く残っているのは、やはり第13章「米坂線109列車—昭和20年」にある、玉音放送が流れた時の様子を描いた場面だろう。
 真夏の陽射しが照りつける正午。水を打ったような静けさの中に、ラジオから雑音混じりの音声が流れてくる。人々は固まったまま身動き一つしない。…玉音放送と聞いて私はそんな場面を想像する。
 多分これは映画やドラマなどで植え付けられたものだと思うが、本書によると現実もやはりそんな感じだったらしい。

〈放送が終っても、人びとは黙ったまま棒のように立っていた。ラジオの前を離れてよいかどうか迷っているようでもあった。目まいがするような真夏の蟬しぐれの正午であった。〉

 だが、そんな時にも列車は通常通りに運行されていたという。

〈時は止まっていたが汽車は走っていた。
 まもなく助士の改札係が坂町行が来ると告げた。父と私は今泉駅のホームに立って、米沢発坂町行の米坂線の列車が入って来るのを待った。こんなときでも汽車が走るのか、私は信じられない思いがしていた。
 けれども、坂町行109列車は入ってきた。
 いつもとおなじ蒸気機関車が、動輪の間からホームに蒸気を吹きつけながら、何事もなかったかのように進入してきた。機関士も助士も、たしかに乗っていて、いつものように助役からタブレットの輪を受けとっていた。機関士たちは天皇の放送を聞かなかったのだろうか、あの放送は全国民が聞かねばならなかったはずだがと私は思った。
 昭和二〇年八月十五日正午という、予告された歴史的時刻を無視して、日本の汽車は時刻表通りに走っていたのである。〉

 私はこの箇所を読んだ時、なぜかホッとして安堵の溜め息をついた。名著。

 

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